前編はこちらから⤵︎ ︎
職場に電話をかける前、彼に「ちゃんと心がつらくてお休みしますって言うんだよ」と言われました。わたしは、「心がつらくてって、言わなくちゃだめ…?身体がしんどくてとか、風邪でって言って休んじゃだめ?」と言いました。何故なら「本当にが心つらいのかどうなのか、自分のことがわからなかったから」です。そして本当に辛かったとしても、「心が辛いって、それは本人の努力が足りていないからだ。こいつは忍耐力が無い。能力も無い。使えない奴だ」と上司に思われるんじゃないかと思い、怖かったからです。
でも彼に、「心がつらいって言わないと、ゆーきちゃんの本当に辛く思ってる部分が上司に伝わらないから。そうすると職場に助けてもらいづらくなるから。周りに辛いんですって言うことは大事だよ。言える?電話してる間、手繋いでてあげるからね」と言われ、
頑張って「心がつらくてお休みをいただきたいです」と連絡しました。
そして上司からの返事は
「はあ………?はい、わかりました…。あの、お大事にしてください…」といった、何が起きたかよくわかっていないようなお返事でした。
職場とのやり取り①
職場への連絡がひと段落し、彼は在宅で仕事があったので「ここにいていいからね。ゆっくりしなね」と声をかけてくれました。
わたしはベッドに潜り込み、その後も理由も分からず、ずっと泣き続けていました。そして泣きながら「もう2度と職場へ戻れない気がする」と思っていました。
そして泣き続けて何時間か経ったころ、わたしは「心がつらくて今日お仕事に行けなかった」と母と親友に連絡をしました。
母の方からは「どういうこと?」と返事がきましたが、それ以上伝えられるような活力は無く「帰ってから話すね」と連絡をしました。
親友の方からは一言「休め」と返ってきて、そこから自分に何があったのか話したくて、ずっと親友とLINEで話していました。
その中で「心がつらくてお休みしますって連絡したんだけど、自分が本当に辛いのかがわからない。実際は身体を動かすことも、仕事をすることもやろうとすれば出来るのかもしれない。だって手足はついているのだから。だからわたしが甘えているだけなのかもしれない」と言ったら彼女は、
「自分がつらいって思ったらつらいんだよ。誰かが決めることじゃないし、誰かが決めていいことじゃないと思うよ。だから君は今つらいんだよ」と言いました。
そこでわたしは、ようやく初めて「つらいんだ、わたしずっとつらかったんだ。つらいって思っていいんだ」と何かに許された気がしました。
そしてその日の夕方、職場から電話がかかってきました。「体調はどうですか?あの、朝電話もらったときに聞き間違えかなとも思ったんだけど、心がつらいって言った?」と言われました。もうわたしは自分のことをつらいと思うと自信を持っていたので、「はい、心がつらいです」と伝えました。
「なにが辛かった?」と聞かれ、そこで初めて、圧倒的な仕事の多さ、プライベートを削って、眠る時間や食事の時間を削って仕事をしていたため、偏った日常生活を送っていたこと、そして新任でわからないことばかりなのに「音楽科の教諭が1人しかいない」責任の重さ、わからないことを誰に聞いても「自分も知らない」と言われること、だから頼りたくても頼れないことなどを話しました。
ですが、会議に呼ばれなかったことや、朝早く呼ばれて出勤したら誰もおらず、実はみんな別の場所にいたことを伝達されず、「なんで来なかったの」と怒られたことは言えませんでした。言ったら自分がすごく惨めに感じる気がして、「嫌がらせをされました」と認めてしまう気がして言えませんでした。
すると上司は、「そうですか…。実は先週、あなたが大勢の先生に囲まれていたところを見ていた先生がいて、大丈夫だったかなあ、とこちらに言ってきた先生がいたんですよ。だから心配はしていたんです。まずはゆっくり休んで。そして明日の出勤は…どうしようか?もしかしたら、何か作戦があるのかもしれないけど、明日の朝また電話するのもつらいと思うので、もし良ければ今、もう明日もお休みって決めちゃった方が楽なのかなと思うけど…どうですか?」
と言われ「何か作戦があるのかも」という言葉に疑問を抱きましたが、納得するところもあり「申し訳無いですが、次の日もお休みをいただきたいです」と伝えました。
「わかりました。お大事にね。いや、朝電話したときより元気そうになって!お話できてよかったです!」と言われ、電話は終わりました。
電話が終わったあとは(朝…より元気に…?見えるのかなぁわたし…。じゃあ早く仕事に戻るべきなの…?でもまだつらい…?わからない…?)と思っていました。そして再び感情失禁の波が来て泣き出すわたしを見て、彼は「今日も泊まっていきな。明日明るい時間帯に家に帰りな」と言ってくれました。
職場とのやり取り②
次の日、彼の家から一旦自宅へ帰ろうと準備を進めていたのですが、隙さえあれば感情失禁の波が来て嗚咽を上げるレベルで泣いてしまうこと、とても1人で外に出て歩くことや電車に乗ることができなく、どうしようかと思っていました。
母や彼は仕事があり、付き添ってもらうことは難しかったため、親友がわざわざ彼の家まで迎えに来てくれることになりました。そしてその迎えを待っていた午前中、職場から1本の電話がありました。恐る恐る出てみると、上司では無く職場の先輩先生でした。
「体調不良でお休みのところすみません。実は仕事の資料で見つからないデータがあるんだけど、どのファイルに入っているかわかりますか?あと、あなたが復帰してから、前に話していた○○の内容ですが、他の先生と話して△△のように進めていこうと思っていて…どう思いますか?いつ頃復帰できそうですか?」といった、仕事の内容の電話でした。
そのような電話を受けて、とてもショックでした。その先輩は優しく、わたしを気にかけてくださることも多く、好意的に思っていた方でした。そのような方にこんなことをされ、「お休みをもらっているのに、なぜ仕事の話をされなければならないの?しかも理由が心がつらいって話しているのに…ちょっと無神経すぎるんじゃない…」と思ってしまいました。
でももしかしたら、その先輩はわたしが心がつらくて休んでいることを上司から聞いていないのかもしれない。聞いていたとしても、わたしが協力しないと職場が困ってしまう、皆さんに迷惑を掛けた上でわたしが休ませてもらっているのかもしれない。皆さんに迷惑をかけている。と思い、また泣いてということをしていました。
その様子を見ていた彼が「社員1人、しかも新人が1人お休みしたくらいでその場にいる人たちでまわせない組織自体がおかしいよ。大丈夫、ゆーきちゃん悪くないよ」と言ってくれました。
そして落ち着き、無事に親友に迎えに来てもらってわたしは一旦彼の元を離れ、自宅に戻りました。
「適応障害」と診断されるまで
自宅に戻ったわたしは、母に今まで起きたすべてのことを話しました。
「あなたから連絡をもらったとき、何かいつもと違う状況…やばいのかもって思ったんだよね。朝早くに呼ばれて行ったら誰もいなかったこととか、嫌がらせか?っていうレベルだよね。なんか話聞いてるとちょっと違和感と思う部分がある。わたしが出て助けてあげたいけど、でも社会人として働いている娘の職場での出来事に親があんまり出しゃばりすぎても、かえってあなたの立場が悪くなると思う。だからとりあえずしばらくお休みもらう?その間に一緒に病院に行こう」
と言われました。そして母に助言を受けた瞬間、職場から「今日はどうですか?昨日は元気そうだったけど、明日からは復帰できそうですか?」と電話がかかってきました。
わたしは「ご迷惑をお掛けしていて本当に申し訳ないですが、家族と改めて話した上で、近いうちに心療内科を受診しようと思うので、そこまでお休みをください」と伝えました。
そこから予約が取りづらかった心療内科をなんとか予約し、数日後に受診しました。
当時の症状としては、
感情失禁(外出中でも何をしてても、自分の意思と関係なく涙が出る)、身体の硬直、幻聴が主な症状でした。幸い睡眠を摂ることやご飯を食べることはできていました。
そしてつけられた傷病名は「適応障害」でした。約2ヶ月間は職場から離れ、療養をするように言われて診断書を書いていただきました。
職場とのやり取り③
「適応障害」と「うつ病」は症状としては似ているそうですが、大きな違いは「原因が明確にあるかどうか」だそうです。わたしの場合は原因が「仕事」としっかり明確にあったので、適応障害に含まれるようです。また、健康な状態を「青信号」、うつ病などの状態を「赤信号」と表すとしたら適応障害は「黄色信号」だと言われました。つまり、治療や環境次第で青にも赤にもなり得る状態なので、くれぐれも無理をしないように。そして治療法についてはストレスから離れた様子を見て、薬物療法等を検討していきましょうという診断でした。
病院を受診したその日に職場へ電話をして、その旨と診断書を郵送することを伝えました。そしてその時、「実は今現場で、あなたに任せていた資料が欲しいという話になっていて…」という話をされました。その内容は、音楽科であるわたしでしかできない内容でした。わたしは、やりかけでお休みに入ってしまったことを申し訳無く思い、「これはわたしがやります。近日中にお送りしますので、少し時間をいただけますか」と返事をしました。
こういう風に、自分が物凄くしんどいときでも「相手が困っているなら」と自分の体調を後回しにしてしまう所は、今でも本当に治したいと思っている部分です💦
なので結局、職場と完全に連絡を取らない状態で療養することはできませんでした。定期的に電話が来て「大丈夫ですか?」「仕事に復帰できたらいいね」「今は生徒たちはこんな様子でね…」と。正直連絡が来る度に記憶が思い出され、泣いてどうしようも無くなっていました。
その様子を見ていた母が、たまたま自宅にかかってきた職場からの電話を取り、「実は電話をもらう度に娘の体調が悪くなる現状で。診断書にも書いてありますが、しばらくはストレスから離れることを医師から言われておりますので、管理職の方々に安否確認の義務もあることは重々承知ですが、もう少し最低限の連絡に控えていただけますか」と伝えてくれました。
そして「そう上司に言っちゃった。勝手にごめん」と言ってくれました。母、ナイス。ありがとう👍
母のお陰でそこからしばらくは職場からの連絡は途絶え、比較的ストレスフリーな日々を過ごしました。彼が「お休みしている間家に来ていいよ。夏休みだね」と言ってくれて、母も「そう言ってくれてるなら行ってきなさい。ご迷惑かけますがって伝えてね。今度お礼しますって」と言ってくれ、休職中の殆どを彼の家で過ごし、たまに実家に帰って顔を出していました。
そうしているうちに少しずつ少しずつ、泣いている時間は減り、落ち込んでいる期間も無くなり始めました。友だちと会いたい、家族とたくさん話したい、彼と時間を過ごしたいと前向きな気持ちが膨らんでいく一方で、「もう、前の職場には戻りたくない」という思いは確信に変わっていきました。
退職をするまで
そして休職してから2ヶ月が過ぎた頃、もう1度病院を受診したところ「もう少し休養は必要ですね」と診断され、更に延長して休職するように指示が出ました。
一方職場にその連絡をしたところ、「辛いお話ですが、新採用が病気休暇を取れる期間は最長で3ヶ月と決まっているのです。3ヶ月を過ぎると、席は置けるのですが欠勤という扱いになります。そして欠勤が続くと、あなたの職歴に傷がついてしまいます。言うならば不祥事を起こした教員と同じような経歴になるので、今後のお給料やボーナス、昇給に支障が出ます。こちらとしても、あと1ヶ月で復帰することができるのなら、もちろんそれを望みますが…。それにあなたはまだ若いので、1度退職をして、しっかり休養した上で教員を望むのであれば、また採用試験を受け直してという方向もあると思います」というお話をされました。
わたしは薄々覚悟をしていました。
小さい頃から夢見ていた教員。わたしは自分自身が小学生の頃にいじめを受け、中学生の頃に友人がいじめを受け、どの頃でも全く助けてくれない教員に深く傷ついて教員になりたいと思いました。教員になって、わたしのような思いをする生徒を無くしたいと思ったのです。
子どもが好きで、子どもの成長していく姿を見ることが好きで、この子たちはどんな大人になるのだろうと考えることが好きでした。
対人関係や進路に迷い、悩みながら生きていく子どもたちを傍で見守り、一人ひとりに寄り添った教育がしたいと思いました。
わたしと出会ってくれた子どもたちが、本人たちが望む将来へ向かえるように教育したいと思い、それをわたしが大好きな音楽で、子どもたちに音楽を通して楽しく学んでもらえたならと思い、わたしは教員を目指し始めました。
教員を目指すまでにも、たくさん辛いことはありました。高校生まで趣味でしか音楽をしたことが無かったわたしは、音楽科の教員を目指すために物凄く勉強しました。たくさん練習しました。たくさん努力しました。
メニエール病と戦いながら、採用試験に臨みました。時には生徒に暴言を受けても、これもすべて教員としての力になると信じて、耐えてようやく教員になりました。
やっとここまで来たのに、やっと来れたのに。
そう思いたい気持ちを抑えました。思ってしまうと、またわたしは頑張ろうとするから。ここまで頑張ったから、「まだ頑張りたい」と思ってしまうから。
わたしは、今の自分を大切にしたい、大切にしなきゃいけないと思い、退職したい旨を伝えました。
そして複数回に渡って上司(電話をしていた上司とは別の方です)との面談を行い、わたしは「子どもたちと離れるのがつらいです。あの子たちを最後まで見届けることができなかった。卒業する姿を見たかった」と泣きながら訴えました。
上司は一言、「あなたみたいな人と仕事をしていたかった。この度はつらい思いをさせて、気づいてあげられなくて本当に申し訳ない。廊下ですれ違ったときに声をかければよかった。何もできず、申し訳ない。あなたは本当に真面目な人だから、どうか自分を責めずに」と伝えてくれました。
こうしてわたしは、2022年の9月に長年の夢だった教員を退職しました。
休職してから約3ヶ月後のことでした。
つづく🌱
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